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   <title>シャネル物語</title>
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   <subtitle>シャネルについて</subtitle>
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   <title>シャネルというクリエイター</title>
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   <published>2007-03-15T05:49:17Z</published>
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      日本でも女優やセレブの間で親しまれ愛用されているブランド時計 シャネルは、ブランド名にもなっているココ・シャネル（正式名ガブリエル・シャネル）が1883年にこの世に誕生したときから、その歴史は始まっています。
美貌と才能あふれるシャネルは、経済力に富んだ男性たちからの保護によって、1910年に、パリ・カンボン通りに帽子店を開き、フランスの各地へと店舗を広げていきました。
それまでなかった、ジャージ素材を取り入れ、華やかに着飾っていた女性たちを驚かせました。
1921年には、世界的に有名な“シャネルNO.5”を発表し、次々とビジネスとしての成功を築いていきました。
1930年になると、ハリウッドの映画スターのための衣装製作の契約を結び、この頃からシャネルのイメージである、バッグに施されたステッチと、革ヒモに組み込まれたチェーンといったスタイルが確立していきました。
これが現在でも人気の「シャネルバッグ」の誕生です。
1955年には、「20世紀の最も偉大なクリエイター」として、モード・オスカー賞を授与されました。
数々の商品を考案していったココ・シャネルは、1971年に、パリのホテルで、87歳の「シャネル」人生に幕を閉じます。
      
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   <title>シャネル成功の秘密</title>
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   <published>2007-03-15T05:45:07Z</published>
   <updated>2007-03-15T05:46:21Z</updated>
   
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      シャネル成功の秘密は、男性の下着や野外用であったジャージーやツイードなどの機能的な素材を女性の服に取り入れる革新的な試みや、スポーティな服にふんだんにゴールドやストーンのアクセサリーを取り入れることによって、着る人の個性を引き出し、より独創的な着こなしを楽しめることを示したことでした。
発想の新鮮さは、新しいもの好きの社交界の女性のみならず、車などのモータリゼーション（移動手段）が発達し始めた時代を背景に、戸外で活動する機会が増えた女性たちの欲求をぴったりとらえていたのです。
黄金時代の後、第二次世界大戦によりブティック閉店を余儀なくされるが、1954年には再び同じ場所（カンボン通り）にブティックをオープン。
コレクションも再開した。
翌年の1955年には「20世紀の最も偉大なクリエーター」としてモード・オスカー賞を授与されている。
また1959年にはニューヨーク近代美術館に「シャネルNo.5」の香水瓶が展示された。
その後かつての黄金期を超える作品は発表されなかったものの、当時社会進出を始めた女性たちや女優などのセレブリティたちは、シャネルの合理的でエレガントな服を愛し、デザイナー、シャネル自身も伝説的な存在となっていました。
1971年1月10日、パリのオテルリッツにてシャネル死去。享年87歳。
その後、1983年にカール・ラガーフェルドがデザイナーに就任、パリ・アヴェニューモンテーニュ42番地にシャネルの2番目となるブティックをオープン。
以後現在に至るまで、オートクチュールとプレタポルテ、化粧品、男性用オードトワレ、ジュエリー、ウォッチに至るまで幅広いアイテムで大きな成功を収めているのは周知のとおりです。
      
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   <title>シャネルの時計</title>
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   <published>2007-03-15T05:43:31Z</published>
   <updated>2007-03-15T05:44:52Z</updated>
   
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      シャネルの時計は、2000年に初となるスポーツモデル「J12」を発売、多くの芸能人も愛用しているほど人気の高い商品です。
名前の由来となった、有名なレーシングヨットのようになめらかな流線型の時計で、その色や素材は多種多様なものが発売されています。
その中でも、群を抜いて人気なのが、「J12 クロノグラフ セラミック ホワイト メンズ」で、男らしさと高級感が上手くミックスした、上質の一品です。
全身真っ白なツヤ感のあるセラミックボディで、装着時の存在感は、おしゃれ度もアップ。
素材は、ハイテクセラミック、サファイアガラスで、200mの防水機能付き、クロノグラフ、カレンダー機能、逆回転防止ベゼル等、機能満載の仕様となっています。
シャネル時計のスポーツモデル「J12」には、レディースもあり、インディックスに12粒のダイヤモンドをあしらったものなど、「シャネル」特有の高級感が失われることなく、機能も充実しています。
手元を華やかに演出するために少し大きめサイズに設定しています。
      
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   <title>働く女性のシャネル</title>
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   <published>2007-03-11T03:56:58Z</published>
   <updated>2007-03-11T03:58:33Z</updated>
   
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      １９１５年、第一次世界大戦のまっただ中に、ガブリエル・シャネルはパリのカンボン通りにメゾンを開きます。
彼女もまた、ポワレ同様コルセットのいらない衣服を提案するが、彼女のつくる服はポワレの服とは少し違った。
ポワレが作ったのは、一日中何もしないで遊んで暮らし、社会的な役割と言えば、男性の存在を引き立てるだけというそれまでの女性のための服でした。
対してシャネルは、とにかく動きやすさとシンプルさにこだわった、働く女性のための服を作りました。
そんな彼女の作ったスタイルとは、ニットでできたスーツ、ヨット用パンツ、ビーチパジャマなどの無駄な装飾を取り払った、極めて実用的なものであった。
一生働く女性であった彼女のドレスには、一貫して自らの人生への姿勢が反映されているように思います。
「シンプルで着心地が良く、むだのないこと。
ことさら、意図したわけでもなく、あたしはこの３つのことを自然に、新しい服装に取り入れていました（ポール・モラン著、秦早穂子訳「獅子座の女シャネル」文化出版局、１９７６、ｐ６１）彼女がドレスを作る際に、一番気をつかったのは動きやすさです。
楽に、何の心配もなく身体を動かしても、みっともなく、だらしなく見えない服づくりにこだわったのです。
      
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   <title>シャネルの精神</title>
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   <published>2007-03-11T03:53:24Z</published>
   <updated>2007-03-11T03:56:35Z</updated>
   
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      オリジナリティがあるなどと言う表現に惑わされてはいけない。
服装の中でのオリジナリティなるものは、ともすれば、仮装や、ゴタゴタな飾りで終わりがちなのです（モラン、前掲邦訳、ｐ.７５－６）このように言う彼女は、黒やベージュの無地の生地をよく使っていた。
また、奇抜で華やかな装飾や色彩以外で彼女が避けたのは、性の強調でした。
すでにポワレは19世紀的な女性の肉体の強調をやめて、腰も胸もただ自然につつみ、いちじるしいデコルテ（低く大きな衿開き）も行っていません。
しかし、シャネルはそれをもっと徹底させました。
彼女は従来の女性に特有の色彩や装飾・素材、シルエットを捨てただけでなく、積極的に男性の服のそれらの要素と精神を女性の服に取り入れました。
すでにテイラードスーツはそう珍しくはなくなっていたが、彼女の取り入れ方は非常に大胆だった。
いくつもの彼女の伝記は、それが彼女の男友達の服装からヒントを得たものであると述べています。
海軍の制服からの濃紺や白の色彩、金ボタン、ゆるやかなパンタロン、さらに、狩猟用のツイード地。
      
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   <title>シャネルのポリシー</title>
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   <published>2007-03-11T03:50:34Z</published>
   <updated>2007-03-11T03:52:59Z</updated>
   
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      彼女は独自のデザインポリシーを持ち、彼女なりに自分の生きかたやこだわりを服に表現したと言える。
しかし、そんな彼女の作った服の人気も、戦争の影響や新しいデザインの出現により徐々に下火になっていきました。
その後、流行したのが１９４７年にクリスチャン・ディオールにより発表された「ニュールック」です。
実は、このスタイルはシャネルが提案した女性を解放するスタイルとはまったく逆のものでした。
このスタイルは、長いスカートに細くしまったウエスト、それと大きくひろがったスカートの裾が特徴の極めて「女性的」なスタイルである。
このスタイルの前に、制服のような直線的なスカートは後退することになります。
また、ニュールックは胸元がＶ字型に開いており、首を根元からかなり大きく出していました。
肩はこれまでの角ばった肩ではなく、パットを取り去った、なだらかな自然のラインを描いていた。
長い袖もしなやかで、かなり幅広である。
夜の服（パーティ用など）はウエストの細さをさらに強調していた。
このためゲピエール（スズメバチの腰）と呼ばれる新しい形態のコルセットが復活し、ウエストのたるみを引き締め、ウエストラインを細く整えるようになる。
また夜のドレスは基本的に肩紐がなく、肩から背中、乳房の上部を完全に露出していました。
      
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   <title>スカートの丈と女性</title>
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   <published>2007-03-11T03:46:09Z</published>
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      １９２０年から１９５０年まではショート丈とロング丈が交互に現れた時期もあった。
１９２０年のスカート丈は、まだくるぶし丈でした。
しかし、２５年にはひざまで持ち上がり、３０年に再び下がってくるぶし丈になるが、３９年に膝丈になり、４７年までこの長さが続いていた。
そして、ここで突然スカートが再び長くなったわけなのであるが、その後、スカート丈は時を経るにつれて次第に短くなっていきます。
こうしたスカートの長短は各時代の女性の意識を反映したものだったと言える。
２０年代の短いスカートは女性の解放、特に性の解放を反映していた。
そして、３０年代の長いスカートはこの流れの逆行を反映していました。
恐慌がもたらした困難な時代には自由であることが不自由になるという女性の危機感がそこに表れていました。
しかし、戦時中にスカートが短くなったのは現実的な諸事情によるものであった。
短いスカートは確かに労働には適してはいたが、生地不足から、そうせざるを得なかったのです。
だから、女性解放という意味では短いスカートよりもズボンにそれが表れていた。
一方、ニュールックの長いスカートは何を表すものだったのかといえば、これはエドワーディアンに共通する時代への反発を表していた。
苦しい戦いの後、つまり女性が男の仕事に駆りだされて軍隊と工場で働いた時代が終わり、統制と窮乏と苦渋に耐えた数年間が幕を閉じたとき、彼女たちは幸福だった過去の時代に戻って、そこにあった女らしい衣服を身にまとうことを夢見たのです。
      
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   <title>シャネルの魅力</title>
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   <published>2007-03-11T03:44:08Z</published>
   <updated>2007-03-11T03:45:58Z</updated>
   
   <summary>確かにシャネルのデザインが流行した時期とコルセットをつける人が減った時期は同じで...</summary>
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      確かにシャネルのデザインが流行した時期とコルセットをつける人が減った時期は同じであるし、シャネルのデザインに対するポリシーや生きかたは当時の女性たちに大きな影響を与えたと考えられます。
なぜならシャネル自身の人生はスキャンダラスで、奔放で魅力的なものであったし、それに「自由」や「解放」を見る女性も多かったからです。
事実、彼女の顧客である女性たちは、彼女の自由で自立した生き方に強い憧れを抱き連日のように彼女のメゾンに訪れていたといいます。
彼女のつくるスタイルも十分影響力があったが、彼女自身のキャラクターも影響力があったのである。
そして、その当時の女性は男性優位の社会から解放されたかったのだということもわかります。
しかし、女性はファッションに「解放」だけを求めているとは考えられません。
１９００年代初めのころは、女性は男性に縛られる窮屈な社会からの解放を望み、第２次世界大戦後の１９４０年代には辛くて厳しい世相からの解放も求めました。
こう考えてみると、女性たちはファッションを一種の逃げ場として捉えているようにも考えられるが、それ以外にももっとそこには女性を美しく装いたいと思わせる何かがあるはずです。
      
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   <title>シャネル、ココは</title>
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   <published>2007-03-11T03:39:19Z</published>
   <updated>2007-03-11T03:40:47Z</updated>
   
   <summary>彼女が生まれた地方は、ソーミュールと呼ばれるところです。 近くの大都市としてはナ...</summary>
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      彼女が生まれた地方は、ソーミュールと呼ばれるところです。
近くの大都市としてはナント市があります。
「ナントの勅令」は１５９８年にアンリ４世によって発布されたが、これ以降フランスのユグノーと呼ばれたプロテスタント達は、伝統派のカソリック教徒と同じ権利を認められることとなり、近代フランスの安定した黄金時代が１００年ほど続く。
このソーミュールがあるアンジュー地方は、辛口白ワインでも有名だそうだが、彼女の人生の始まりは、辛口というより苦渋に満ちたものであったのです。
１８８３年に生まれたことになっているが、彼女自身は１０年後の１８９３年に生まれたと生涯主張し続けました。
ソーミュールでのガブリエルは貧しかった。母は６歳の時に亡くなり、父は母が亡くなるとともにガブリエルを含めた幼い子供達を残して姿を消してしまったのです。
オーファニジや親戚のもとで暮らした後、ガブリエルはパリに出ます。
カフェで働くため、そして、キャバレーのシャンソン歌手として夜毎、パリジアン、芸術家を楽しませるため歌い続けた。
ガブリエルの働いていた「ラ・ロトンドゥ（円形状建物と言う程度の意味）」は、カフェ et キャバレーであり、彼女の歌う&quot;Qui qu&apos;a vu Coco dans le Trocadero（キ・クヴァ・ビュ・ココ・ダン・ル・トゥロカデロ＝「トゥロカデロの店でココを見たのは誰？」）&quot;と”Ko Ko Ri Ko（ココリコ：鶏の鳴声のフランスでの擬声：英語のクックアドゥードゥルドゥーにあたる）”は、パリのスマッシュ・ヒットとなり、これにより彼女のニックネームは「ココ」となったと言われています。
      
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   <title>シャネルが求めたもの</title>
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   <published>2007-03-11T03:37:18Z</published>
   <updated>2007-03-11T03:39:08Z</updated>
   
   <summary>ガブリエルが歌ったシャンソンでは、いったいどの意味であったのでしょうか。 ２０世...</summary>
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      ガブリエルが歌ったシャンソンでは、いったいどの意味であったのでしょうか。
２０世紀初頭と言えば、イギリスでは未だ１９世紀のヴィクトリア朝大英帝国の余韻が続いていました。
かつてのブルボン王朝の栄華は巨大な建造物に残りこそすれ、フランス革命、ナポレオンによるヨーロッパの統一の試みと挫折、その後のウィーン体制、パリ・コミューンなど、王政と共和制から地域的共産政権とありとあらゆる政府形態を経験した激動の時代でした。
そのなかでも、文化的には「野蛮」とさえ見られていたプロシアからドイツの政治的台頭は、フランスの国際的な地位をの凋落と多くのフランス人は感じ取っていたに違いないこの後、ココ・シャネルは、フランス兵の愛人となり、夫人帽子店を開き、イギリス人資産家との恋により、１９２０年代に店はファッション・ハウスにまで拡大し、彼女の才能が次々と開花してゆくととなります。
イギリス社交界のウェスト３７センチを理想とするコルセットに代表される「拘束された極限の女性の美と豊満さ」に対して、ココ・シャネルは、「リラックス」した女性像を求めた。
スカートの丈を初めて短くすることにより、女性を解き放とうとしたのは彼女の近代女性の生き方のシニフィアン（表現）となり、その後のヨーロッパ女性の衣装から生き方までも大きくとらえることとなります。
      
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   <title>シャネラー</title>
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   <published>2007-03-11T03:35:06Z</published>
   <updated>2007-03-11T03:37:04Z</updated>
   
   <summary>日本には世界中の大衆が決してそこまでは手を伸ばさない異常な言葉がいっぱいあります...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://snl.dz7.biz/">
      日本には世界中の大衆が決してそこまでは手を伸ばさない異常な言葉がいっぱいあります。
そのひとつが&quot;シャネラー&quot;です。
いったい誰がこんな言葉を言い出したのか。
ここで&quot;シャネラー&quot;の登場なんぞを詳しく分析してみる気はないが（それをやれば、なぜ日本人の購買力によってエルメス、グッチ、ヴィトンが販売力の半分以上を確保できているかという事情を解剖できるだろうが）、日本のお姉さん、おばさんたちがシャネラーになったのは1983年にカール・ラガーフェルドがシャネルの主任デザイナーになってからのこと、それ以前はそんなことはおこりっこなかったはずです。
だいたいいまシャネラーがもてはやしているシャネル・スーツは本来のシャネル・スーツではなくて、1985年の春夏コレクション以降のスタイルなのです。
それにシャネルがプレタポルテ部門を始めたのがやっと1977年なのです。
ココ・シャネルが晩年を逼塞するかのごとく送ったパリのホテル・リッツで亡くなったのが1971年だから、６年後のことだ。
それまではシャネルといえばオートクチュールのメゾンのことでした。
またシャネル・スーツといえばシャネルレングスという、ちょうど膝が隠れる程度の丈と決まっていた「サムディ・ソワール」の創刊者であって、「マリー・クレール」の元編集長です。
だからというのではないが、本書はふつうの評伝よりずっとオシャレに、そこにココがお気にいりの椅子に坐って、こちらを向いて早口に喋っているかのように、とてもスタイリッシュにできています。
ふんだんにココの言葉が引用されているのも、類書には見られない特徴になっている。
周知のようにココの言葉は勝手なもので、直観に富み、しばしば逆説的です。
たとえば、こんなふうに。
いささか順番をぼくがいじってあります。
      
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   <title>シャネル、パリへ</title>
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   <published>2007-03-11T03:32:07Z</published>
   <updated>2007-03-11T03:34:14Z</updated>
   
   <summary>ガブリエル・コレットは1873年の生まれで、シャネルはそれより10歳の年下だ。 ...</summary>
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      ガブリエル・コレットは1873年の生まれで、シャネルはそれより10歳の年下だ。
そのコレットの『学校のクロディーヌ』『パリのクロディーヌ』で、たくさん の&quot;クロディーヌたち&quot;がパリに溢れたとおもわれたい。
『アンアン』『ノンノ』を読んで東京に出てくる少女たちが溢れたという状況である。
そこへ1909年にシャネルがパリにやってきます。彼女の両親は行商人だったのです。
ようするにコレットとシャネルが夢見る田舎娘だったこと、これがシャネル物語の最初の出発点になります。
シャネルはオバジーヌの教会の救済院で生まれ、修道院の孤児院で育ち、18歳でムーランのノートルダム修道院の寄宿生になるまでは、どんな夢も想像力の中だけで育てていた貧しい少女にすぎなかったのです。
のちのシャネルも少女時代や両親のことは語りたがらない。
そして20歳、シャネルは友達と下着衣料店に奉公に出て、そこで縫い仕事をおぼえた。
1905年、ラ・ロトンドの舞台に立って「コ・コ・リ・コ」というシャンソンを唄い、ココと徒名されました。
やっとシャネルのベル・エポックが始まったのです。
次に、ポール・ポワレのモード革命があったということがシャネル物語の前提になる。
それまでのファッションはイギリスから来たガストン・ウォルトの世界である。
ついでマダム・パカン、キャロ姉妹、シェリュイ、ランヴァンが続いたが、ポワレがすべてを一新しました。
その象徴がドニーズだ。
ドニーズはポワレと連れ添った美しい妻であるが、その痩身のシルエットこそはのちの1920年代のモデルになっていきます。
      
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   <title>シャネルの才能</title>
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   <published>2007-03-11T03:30:34Z</published>
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      シャネルを本当に変えたのは、当時のパリの社交界を代表したミシア・セール（本書ではミジア）でした。
ドビュッシー、ロートレアモン、プルースト、ロシアからバレエ団リュスを引き連れてきたディアギレフ、ピカソ、ストラヴィンスキー、そしてジャン・コクトー。
みんながみんなミシアの美貌と感覚に酔わされました。
そのミシアがシャネルを引き立てるのだ。
ミシアの社交がなかったなら、シャネルはココ・シャネルにならなかった。
とくにミシアが会わせたディアギレフがシャネルと深くなって、シャネルは大いに変わります。
1920年代のシャネルはロシアの色を濃くしていくことによって自分を磨いたといってよい。
シャネルはディアギレフの公演後のパーティを必ず引き受けたのだ。
そして、女たちが何を着ればよいのか、見抜いていった。 
ディアギレフの舞台とパーティがココの才能を引き出したわけです。
それだけでなくレイモン・ラディゲを失ったコクトーが阿片中毒になっていったのを身を呈して救ったのはシャネルでした。
このことはのちのシャネルに何百倍にもなって戻ってくる。
が、計算はなかった。
シャネルは「自分の身柄を男に預ける才能」とともに、もともと「気になる男の身の危難を一身に引き受ける愛情と度胸」をもっていたのです。
      
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   <title>シャネルの宿命</title>
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   <published>2007-03-11T03:28:48Z</published>
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      男というものは、その女性が何に犠牲的になるかを見ているのであって、どんな自己保身的な女性にも関心をもたないものなのです。
とくにちょっと犠牲を払ってすぐにその報酬をほしがる女からは身を引きたくなるものだ。
シャネルには、その「相手に何かをほしがる」というケチな根性がなかった。
このシャネルの魅力はかえって何かに充実している男をぐらりとさせました。 
だから、イートンホールの持ち主で大金持ちのウェストミンスター公爵や、ポワレをはじめとするデザイナーのデッサンを担当していた花形イラストレーターだったポール・イリブが、美と男に関する 献身の哲学をもったシャネルに近づいたのは当然だったのです。
すでに「シャネル･スーツ」でも「シャネルNo.5」でも名をあげつつあったシャネルは、二人に対してやっと落ち着いた女心を見せはじめました。
とくにイリブとは結婚してもよいと思っていたのだが、何の因果か、イリブは急死する。
シャネルの人生を見ていると、自分が賭けた男はたいてい早死にするか、身をもちくずす。
シャネルが獅子座の宿命を背負っていると言われはじめたのはこのころからです。
こうして戦争になる。
フランスは戦火に巻きこまれ、シャネルも結局は、男との生活を一度としてすることなく、モードにすら関心を失って長い沈黙に入っていきます。
      
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   <title>シャネルの幼き日</title>
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   <published>2007-03-11T03:27:02Z</published>
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      ガブリエル（ココは愛称）・シャネルが12歳の時、33歳の母は過労と結核とで亡くなった。
後年シャネルは「母が死ぬと父は仕事でアメリカに行き、私は叔母に預けられ、父からの仕送りで育てられた」と語った。
が、これは真っ赤な嘘である。
母の死から一週間もしないうちに、父はシャネルを姉と一緒に修道院内の孤児院に預けると「必ず迎えに来るよ」という言葉を残し、行方をくらませました。
要するに、シャネルは父に棄てられたのです。
行商人の父は、商売で街を移るたびに女を取り替えるプレイボーイだった。
シャネルが生まれた時、両親2人は結婚していなかったのもそんな理由からです。
籍を入れた後も、飲酒癖、放浪癖のある父は家を留守にしがちで、母の死にも立ち会っていなかったのです。
娘たちと離れてからも女遊びにうつつを抜かし、酒におぼれ、詐欺師まがいの暮らしを続けていました。
シャネルのほうは修道院内で、はた織や刺繍、編物などの手芸をみっちりと仕込まれました。
これは、修道院のシスターたちが孤児たちを将来自立させるために教える手仕事のひとつだったのです。
生まれつき手先が器用なシャネルは、当時の仲間たちの間でも一目置かれており、毎年夏、修道院主催のバザーが開かれると、彼女は得意の刺繍やアップリケなどを駆使し、手の込んだものを出品しました。
      
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